【解説】

我々お互いの心の中には光り輝く良知があるではないか。
それを頼りにすればいいので、他に何も言い残すことはない。


さて、「この心、光明、また何をか言わん」という言葉は陽明が臨終に際して門人に述べた辞世の句であります。陽明は、辰濠の乱を平定し、しばらく後にようやく暇を貰って郷里に帰り、数多くの門人たちと学問に励んでおりました。それまで、いつも陽明は仕事を辞めさせて欲しいと朝廷に願い出てもなかなか許されませんでしたが、そのようなことを願ったのは、郷里で門人たちと学問をするのが陽明の目的であったからであります。

ところが、晩年になって、またもや陽明は中国西南方の広西省にいる賊の平定を命ぜられます。自分は病身であるからと断りましたが、どうしてもこれを断ることは許されません。陽明はもともと肺病体質でありましたが、その弱い身体を引っ提げ、はるばる賊の討伐に出かけました。門人たちと別れる前日、陽明は「善もなく悪もないのが心の本体、善があり悪があるのが意の発動、善を知り悪を知るのが良知、善をなし悪を去るのが格物」という四つの言葉の解釈を与えて出発しました。

広西省の賊は余り困難を伴わずに平定することができましたが、陽明が任務を終えて郷里に帰るときは、もう身体が衰弱し切っていて、舟に乗って帰る途中、とうとう江西省の南安というところで亡くなってしまいました。陽明の臨終に際し、門人が私たちに教え残して下さるものはないのですかといったとき、陽明の述べた言葉が「この心、光明、また何をか言わん」というものでありました。

この我々のお互いの心の中には光り輝く良知があるではないか、それをたよりにすればいいので、他に何も言い残すことはないといって陽明は永遠の眠りについたのであります。朱子は臨終に際して「大いに学問に励みなさい」.と門人にいったそうでありますが、陽明は、このように良知に満ち足りた言葉を残したのであります。

かつて私は、同志とともに陽明が亡くなった南安の河畔に参り、鎮魂の儀式をして陽明の死を悼みました。そのとき私は、あの苦難に満ちた陽明の生涯を思い、思わずむせび泣きしたことを覚えております。

【場所】威徳寺

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創建年は明確ではありませんが、備中松山藩主である池田長幸と長常の墓があります。長常の墓には「寛永十八年」と陰刻されています。

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230528155041728

【アクセス】

716-0041
岡山県高梁市上谷町

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