夢と希望を持てる社会「治国平天下」と物事をうまく運ぶための真心「至誠惻怛」という山田方谷の思いを通して、社会教育の推進と、現代の山田方谷を育てる事を目的と致しております。

「方谷の道」十二碑

「方谷の道」十二碑は、高梁市の郷土の偉人・山田方谷の残した名言が刻まれた石碑で、城下町高梁の各地にある方谷ゆかりの地を散策しながら、方谷の思想を学ぶことができます。

距離:約6キロ
所要時間:2時間30分(石碑見学時間含む)

【山田方谷(やまだ ほうこく)とは?】
 山田方谷は江戸時代末期から明治時代初期の陽明学者で備中松山藩士です。
 子どものころから才覚にあふれ、佐藤一斎門下では佐久間象山と二傑とうたわれていました。帰藩後は財政難に陥っていた藩政を、藩主・板倉勝静(いたくら かつきよ)(江戸幕府最後の老中首座)のもと断行し大きな成功をおさめました。その噂は全国に伝わり、越後長岡藩の河井継之助なども方谷に師事し、自らの藩の藩政改革を成功に収めました。
 大政奉還後、新政府から方谷に要職への出仕の話もありましたが、それを断り、後進の育成に尽力しました。
 陽明学者でもある山田方谷は多くの名言を残しており、十二碑の第一碑である「至誠惻怛(しせいそくだつ)」はなかでも最も有名な言葉で、方谷の精神を表す名言です。

地元では「方谷さん」と呼ばれ、親しまれ、愛されています。

陽明学の道

「王陽明の名句とその解説」という文章についての経過を、少々お伝えしたいと思います。

平成16年6月に衆議院議員の小野晋也氏をコーディネーターに「第一回山田方谷シンポジウム」が開催されました。

『陽明の道または’陽明の丘を目に見える具体的な運動のシンボルとして作ってみないか!

ここからは、シンポジウムの議論の中には出てこなかったが、私(小野)の個人的アイデアとして、皆さんに御提案申し上げたいことである。

その1つは、山田方谷先生がその思想の基礎とされた陽明学について、それを学び、更にその始祖である王陽明の人生等について思いを巡らせるという揚所が、今の日本には恐らく無いと思うので、この地「高梁」に、それを建設してはどうかということである。

それも、立派な建物を作り運営しよとすれば、莫夫な建設費と後の運営費もかかるので自然の中に、石碑の形で設置し、余り大きな費用がかからない工夫をすることも、併せて提案したいと思う。

実はこのモデルが、愛媛県四国中央市の新宮という土地にある、美しい自然あふれる道に12人の人生を貫いた言葉を石碑の形で設置して、その道を「志の道」と呼んでいるのである。これなら時々、地域の方々の協力を頂いて、石碑回りの清掃をするだけで済む。

さしずめ、この高梁市だと、備中松山城があり、そこには観光客も多い、この臥牛山中の道に、王陽明が生まれてより亡くなるまでの人生とその折々の言葉を散りぱめた石碑を設置した道を作ってみてはどうだろうか。』

という提言をまとめ、実際に陽明学の道を造るべく岡田先生に王陽明の名句を10句選定していただくようお願いに上がったところ、岡田先生は快く引き受けてくださいました。

しかし、その後岡田先生は体調を崩され、平成16年10月17日、95歳で永眠されました。偉大な陽明学の研究者の死を皆が悲しんでいたとき、岡田先生の事務所より連絡がありました、その内容とは「岡田先生は高梁市と山田方谷のために依頼されていた名句の選定をしておりますので、どうぞお受け取り下さい。」といった内容でした。

そして、その原稿には、王陽明の句10句が選定してある物だと思っていたそれには、びっしりとその句の解説文が添えられ、さらに王陽明の説明までもが誰にでもわかりやすく解説されていました。

事務所の方のお話では、岡田先生は「句だけではわかりにくい、高梁の人誰もがよく理解できるよう一つ一つに解説をつけよう」と、みずから文章を制作していただいたそうです。その際、すでに先生の病状は進行してほとんど目が見えなくなっておられたそうで、口頭筆記によって文章を完成されたとのことです。

岡田先生の遺稿となった文章です。是非ご覧下さい。
王陽明の名句とその解説

岡田先生に名句選定をお願いした経緯と、選定した王陽明の各句の意味の解説を掲載しています。