【解説】

山中の賊を破ることは容易であるが、人の心中に宿る賊(私欲)を克服することは難しい。


県知事の任務を報告するため都に帰って暫くしますと、陽明は南京の役所の役人として赴任させられます。陽明は早く郷里に帰って門人たちと勉学することを願っていたのですが、なかなか許されません。

やがて陽明は、江西省南方の乱賊の討伐を命ぜられます。といいますのは、そのころ江西省の南で広東省・福建省・湖広省との境界の辺りに多くの乱賊が出没していたからです。それでは何故、陽明がそういう役目を命ぜちれたのかといいますと、陽明は若いとき非常に熱心に兵法の勉強をしていまして、北方から侵入してくる異民族への対策を報告書にまとめて朝廷に進言したこともありました。そういうことを軍務大臣の王晋渓が知っていたのでしょう。王晋渓は、陽明でなければそういう不穏な形勢を取り除くことができないと考え、陽明に軍事の大権を与えて南方乱賊の平定を命じたのであります。

陽明は、江西省南方にある□州という大きな街に赴任して軍政府を開き、各地に幡居する乱賊を次々と打ち破っていきました。ただ陽明のやり方は、これまで官軍が取った平定のやり方とは大きく違っておりました。その第一点は、初めから軍隊を率いて乱賊を討伐するのではなく、まず彼らを説得して、それを聞かない場合に討伐するというやり方を取ったことです。次に第二点は、これまで官軍が山岳地帯に住む凶暴な蛮族の兵士を使っていて、その害悪は乱賊以上であったことから、陽明はその力を借りずに自ら精兵の軍隊を編成し、さらに良民の中に乱賊の者が入りこまないような組織を作った上で、各地にひそむ乱賊を平定していったのであります。

そして、そのような軍陣の中にあっても陽明は、門人に講義することを忘れませんでした。手紙でありますが、あるとき「明日は敵の根拠地に進攻する予定にしている。ところで、山中の賊を破ることは容易であるが、人間の心中に巣くう賊(私欲)を克服することは難しい。諸君が心中の賊を破って、心をすっきりさせたなら、それはまことに偉大なことである」ということを書き与えております。

こういうことは宋代の学者もいっていましたが、陽明と違うのはどこかといいますと、陽明は我が心の中にすべての道があるとしますから心の力というものを信じております。だから、その心があれば、私欲を見抜いてそれを除去する力が出てくる、そういうことができるというのであります。こういう点が、同じようなことをいっても、いささか異なってまいります。そういう心とはどういう心かと、いいますと、後に陽明はそれが良知だとはっきり述べるようになりますが、そのころは未だそこまでは行かなくても、人の心には私欲を見抜きそれを除去する力があるということを、それとなく信じておりました。私欲を見抜く力は、猫が鼠を捕まえようとするときの鋭い目でこれを見て、そして除去する力を持っているというのであります。その力で私欲を一掃しなければならないと陽明はいったのであります。いずれにしましても、この「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」という言葉は、陽明の数ある名言の中でも特に有名なものであります。

【場所】寿覚院

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浄土宗知恩院の末寺であり、本尊は阿弥陀如来です。成羽藩主である山崎家治公は、祖父である堅家公の母の法名を寺号として、成羽の地に寿覚院を建立しました。寛永十五年(一六三八年)には、家治公の天草への移封に従わなかった一部の家臣たちも、寺とともにこの地に移りました。

現在の本堂は五暦六年(一七五六年)に再建されました。火龍の欄問は江戸時代中期の典型的な、華やかな極彩色の立体彫刻です。本堂の裏には、寛永十七年(一六四〇年)の銘が入った五輪塔と室町時代末期と思われる板碑があります。墓地には、歴代藩主である水谷、安藤、石川、板倉家と歴代の家臣の墓が多く存在しています。

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【アクセス】

716-0019
岡山県高梁市寺町2188−1

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