【阿璘時代の主な出来事】

文化2年(1805年)2月21日 備中国松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で、父・五郎吉、母・梶の間に生まれる。

幼少のころから大変頭がよくまた、字のうまい子であった。

4歳の時…字がうまいということで書を木山神社に奉納している。

5歳の時…新見藩藩校思誠館の儒学者丸川松隠のところに、親元を離れて入門し、儒学を本格的に学ぶ

8歳の頃…丸川松隠の客人に「幼いうちから何故学ぶのか」と問われ、当時大人でも学んでいない「大学」という書の中の言葉で「治国平天下」と答える。

13歳の時…母梶が危篤との知らせを受けて一度に仕方に戻るが、「学半ばにして戻るとは何事ですか」と叱られて泣きながら新見に戻る。しかし、母梶は10日後に無くなってしまう。母の死後、父五郎吉が思誠館に連れ戻しに来るが、丸川松隠に説得され、連れ戻さずに帰る。

14歳の時…その父五郎吉も他界し、幼い弟と父の後妻の近しかいない西方の家に、丸川松隠の下を辞去して戻る。

【安五郎時代の主な出来事】

15歳の時 文政二年(1819年)…父が生業にしてきた菜種油商を継ぐ。

17歳の時…新見藩士の娘若原進と結婚する。この時の経験が、後の藩政改革で庶民のことをよく理解した内容となって表れる。

21歳の時…備中松山藩主板倉勝職の目に留まり、二人扶持の奨学金をもらう。この間藩校有終館の出入りを許される。

22歳の時…長女瑳奇が生まれる。

23歳の時…京都遊学し丸川松隠の学友で九条家の家士で儒学者寺島白鹿のところに学ぶ。この時に丸川松隠より「学問の淵源を探ってこい」といわれる。なお、この時は春から歳末まで学ぶ

25歳の時…二回目の京都遊学(3月から9月まで)で寺島白鹿に学ぶ。「天人の理を極め、性命の源に達し、大賢君子の境地にまでのぼる」と丸川松陰に手紙を書く。この年の12月に藩主板倉勝職より、名字帯刀を許され、八人扶持の俸禄となって父母の悲願であった御家再興が叶う。この時は藩校有終館の会頭(教授)となり、学頭の奥田楽山とともに教鞭をとる。

26歳の時…丸川松隠のお供をして伊勢参りをし、様々な藩の儒学者と面識を持つ。松山城下に家を構える。

27歳の時…城下本丁の家を失火で失う。7月より三回目の京都遊学。

28歳の時…寺島白鹿のところを辞し、同じ京都の崎門派の儒学者鈴木遺音の下で、春日潜庵とともに陽明学を学ぶ。

30歳の時…江戸遊学し、丸川松隠の学友で昌平黌学頭の佐藤一斎の私塾に入門する。同門の佐久間象山や、渡辺崋山などと出会う。この時に「理財論」「擬対策』を書く。

32歳の時…娘瑳奇の死の知らせを受け、帰藩。備中松山藩藩校有終館学頭となる。

【方谷時代(備中松山時代)の主な出来事】

34歳の時…藩校有終館とは別に、私塾「牛麓舎」を開校し武士以外にも門戸を開く。進鴻渓、大石隼雄、寺島義一らが入門。

35歳の時…有終館が火事になり藩に前借して再建する。弟の平人に後に養子となる長男の耕蔵が生まれる。

40歳の時 弘化元年(1844年)…藩主板倉勝職の世子の板倉勝静が入封する。板倉勝静に有終館前学頭・奥田楽山と交互に講義する。

45歳の時…藩主板倉勝職逝去し、板倉勝静が藩主となる。板倉勝静より、松山藩の元締役兼吟味役元締を命じられ、藩政改革に取り組み、質素倹約などを通達する。

46歳の時…十万両の借金の返済猶予と、返済計画提示のために大阪商人を集め貸主と会談。「今度の元締役は波の人物ではない」と評価される。

47歳の時…農民や商人など庶民に洋式銃を訓練し、農兵隊(里正隊)を創設。この時十万両の借財の猶予などが評価され、板倉勝静が奏者番となる。

48歳の時…氷奉行に任命される。信用を失った旧藩札を回収し、高梁川の河原で焼却。その後新しい藩札を発行する。また貯倉を設置、備中鍬、備中たばこ、備中和紙、備中宇治茶、柚餅子など備中ブランド品を流通させ、それらの専売のために撫育方、産物方を設置。

50歳の時…元締役兼藩執政に就任。二人目の妻との間に娘小雪が生まれる。

51歳の時…津山藩士植原正方を招き、玉島沖で感情砲撃訓練を行う。なお、この年安政の大地震で藤田東湖が無くなり、江戸藩邸も被害を受ける。この時、信用を回復した大阪商人から支援を受ける。

52歳の時…みどり(39歳)と三度目の結婚。

53歳の時…藩政改革が終わったとして、備中松山藩の元締役を辞任。後任を家老の大石隼雄とする。板倉勝静はこの年に寺社奉行に就任。

54歳の時…久坂玄瑞が来て里正隊を見学、長州に持ち帰り報告し高杉晋作の奇兵隊の下となる。

55歳の時…長瀬に移住。越後長岡藩の河井継之助が塩谷宕陰の紹介状を持って入門する。板倉勝静は、この年に安政の大獄に反対し、寺社奉行などすべての役職を免ぜられてしまう。

56歳の時…桜田門外の変

【方谷時代(中央政界時代)の主な出来事】

57歳の時…板倉勝静が奏者番兼寺社奉行に復職。それに伴い江戸で顧問となる鵜が、愛宕山下で吐血して倒れ、療養のために帰藩。

58歳の時…板倉勝静が老中となり、老中顧問となる。十四代将軍徳川家茂に謁見し、幕政について聞かれた時に「大きな船だが板の下は荒波」と答える。この時、「快風丸」をアメリカから購入。隠居を許され、家督を弟平人の子耕蔵に譲る。文久の改革で江戸に来訪した勅使大原重徳と会談、その夜大久保利通と夜を徹して会談する。

60歳の時…第一次長州征伐で留守居役となり、幕府側の藩の補給などを引き受ける。このとし、禁門の変で、久坂玄瑞死去、また襲撃され佐久間象山死去。

62歳の時…第二次長州征伐で、里正隊を指揮する。

63歳の時…大政奉還の文案を競う。この時に、板倉勝静から脇差を頂く。また娘の小雪が矢吹発三郎に嫁ぐ。

【方谷時代(明治教育者時代)の主な出来事】

64歳の時…藩主不在の中、官軍に対して備中松山城を無血開城、藩主板倉勝静を隠居させる。なお、この年に玉島事件があり熊田恰が自刃。また北越戦争で弟子の河井継之助が戦死。

65歳の時…長瀬塾を拡大し教育を行う。

66歳の時…小坂部塾を開校。

67歳の時…閑谷学校で陽明学の講義を行う。

69歳の時…小田県令矢野光儀が大久保利通に言われて県の政治に関して助言を求めに来る。

71歳の時…謹慎が解けた板倉勝静と再会

73歳の時…明治10年(1877年)6月22日、小坂部宿にて死去。枕元には陽明学全集と板倉勝静から頂いた脇差、それと護身用の拳銃があったとされる。